- 読みもの
- お買いもの
- TTJ
- 東京茶寮
- 私達について
-
作家名一覧
- 煎茶堂東京
- 相馬佳織
- フじイまさよ
- 稲村真耶
- 児玉修治
- 小野陽介
- 高木剛
- 森岡希世子
- 石田誠
- ちいさな手仕事
- 光藤佐
- 須原健夫
- 淡海陶芸研究所
- 千田稚子
- 中村譲司
- 多田佳豫
- 北井里佳
- 齋藤有希子
- 酒匂ふみ
- 白鷺木工
- 秀野真希
- 林沙也加
- 作山窯
- 中里花子
- 村田匠也
- 荒賀文成
- 水野悠祐
- 南裕基
- 只木芳明
- 色原昌希
- 小宮崇
- 飯高幸作
- 三輪周太郎
- 横山拓也
- 亀田文
- 亀田大介
- 中村豊実
- 高橋禎彦
- SHISEI
- 松徳ガラス
- 村上雄一
- 黒川登紀子
- YŌKI
- 加藤かずみ
- 瀬戸國勝
- 阿部春弥
- シャンブリートリオ
- 入江佑子
- 三野直子
- 古谷宣幸
- 渡辺キエ
- 後藤睦
- 三浦ナオコ
- 濱岡健太郎
- 山田哲也
- WASHIZUKA GLASS STUDIO
- 李荘窯
- おじろ角物店
- 船串篤司
- はなクラフト
- 光泉窯
- 萩原千春
- 藤村佳澄
- 中原真希
- 堀宏治
- 広末裕子
- 文山窯
- 伊藤萠子
- 竹下努
- 角田清兵衛商店
- Eliu
- 紙上征江
- 天野千香
- 四十沢木材工芸
- 水野悠祐
にぎり鮨だけが「すし」じゃない!? おすしの歴史を知ろう!
2022年06月17日
by 煎茶堂東京編集部
お鮨といえば、お茶がつきもの。みんな大好きな「おすし」ですが、その歴史や成り立ちを研究している人は、実はとても少ないのだとか。
今回は、「すし食文化」研究の第一人者でもある日比野光敏先生に、「すし食」の起こりから、
今日の「お鮨」への変化について、お話を伺いました。
教えてくれたのは…日比野光敏さん
すし研究家、清水すしミュージアム名誉館長。もともと地理学を学んでいた日比野さん。レポートのために調べはじめた “すしの歴史”がほとんど研究されていないことに驚き、すし研究の道へ。冒頭でもお話しいただいた「すしのルーツ」についてのフィールドワークも構想中だそう。著書に『すしの貌』『すしの歴史を訪ねる』『すしの事典』など。
―「すし」とひとくちに言っても、いろいろ種類がありますよね。
すしのルーツは、いわゆる「なれずし」。魚を塩と米と漬け込み、発酵させる保存食品だったんです。東南アジア~中国南部あたりが起源となって、奈良時代以前に日本へ伝わったのちに独自の変化を遂げたのが、現在の「すし」だと考えられます。
ただ、このルーツはまだはっきりしたことが分かっていません。
―「すし=日本の伝統食」というイメージですが、起こりはアジアだったんですね……!
ええ、もともとは発酵食品だから、作るのにも数か月単位の時間がかかるし、お米はぬか漬けのぬかみそのように、捨ててしまうものだったんです。当初は高貴な方々への献上品でしたから、やはり贅沢ですよね。
―おすしといえば「ハレ」の日の食べ物と感じるのは、もともと高貴な人々の食だったせいもあるのかもしませんね。それにしてもお米を捨ててしまうのは、もったいない……。
室町時代に入ると、庶民もすしを食べられるようになります。そうすると、お米を捨てなくても済むように発酵時間がどんどん短くなっていくんです。
また、すしにお酢が使われるようになったのも大きかったですね。お酢自体は奈良時代からありましたが、すしに使われるようになったのは江戸中期です。
江戸初期まで「すし」といえば今でいう関西ずしが主流でした。木枠の箱にすし飯と鯖、穴子、卵などを敷いて整形した箱ずしです。でもそんな悠長なことはしてられない、手で握っちゃえと、1820年頃に生まれたのがにぎり鮨だといわれています。
―やはり江戸っ子は気が短いからですか?
当時の東日本には飢饉が多く、江戸に働きに出てくる男性が多かったんです。男ひとりが腹を満たすなら外で食べた方が早いと外食産業が流行り、その中に鮨屋もあったわけですね。江戸っ子の気が短いというよりも、手軽に食べられるものが好まれたということでしょう。
安価な鮨がある一方、高級なにぎり鮨というのも登場して、これも“一生に一度は食べたい鮨”と人気になるんです。安価な店と高級店、両方とも江戸時代にはすでにあったんです。
―今、おすしというとパッと浮かぶのは「にぎり鮨」という人が多いと思います。新参者のにぎりが人気になったのはなぜなのでしょう?
それには3つのポイントがあります。ひとつは明治の新政府が欧化政策を推し進めたこと。東京がそのモデル都市となり、全国も東京に倣えという空気が生まれました。
そしてふたつ目は関東大震災です。疎開やUターンで、東京で働いていた人が全国に散り、その中にすし職人もいて、江戸前の鮨が全国に広まりました。
そして3つ目が、戦後の食糧難の時代。日本は英米などから給食の援助を受けなければいけない。そうなった時に、闇市にお米があってはマズい。だから政府は「飲食営業緊急措置令」を出して、飲食業を名乗るものは一切米粒を出しちゃいけないとおふれを出しました。
ところが鮨屋の組合が、“鮨は飲食業じゃない”と主張したんです。“お客さんが持ってきた米を握って鮨にするんだから加工業だ”って。それを東京都が受け入れて、ほかの県も右にならえをしてしまったものだから、江戸前の鮨屋は、ほぼ全国で営業できたんです。
―無理のある主張に聞こえますが……。
きっとお偉いさんの中にも江戸前の鮨が食べたい人がいたんでしょう(笑)。やはりにぎり鮨は職人のわざが必要で、店でしか食べられないものという認識が皆にあったからこその出来事だと思います。
2~3年経って、「飲食営業緊急措置令」が廃れてどんなおすしでも出せるようになっても、江戸前のにぎりのおいしさに全国が目覚めた。それで「すし=江戸前のにぎり」という図式ができました。
―なるほど! しかし一方で廃れてしまった「すし」もたくさんあるのでしょうね。
そうですね。手間がかかる、大量に作らないといけないなど、その理由はさまざまです。もちろん、できるだけ記録して残したいという想いはありますが、「すし」という料理がそもそも時代や、風土に合わせて自由に発展してきたもの。
これだけ愛されている料理ですから、これからどんな変化を遂げて後世に伝わっていくのか、とても興味深いと思っています。