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自分の代になって、次の世代にも残したいと思った 「035 さきみどり彼杵」大山製茶園 大山良貴さんインタビュー

2020年07月19日

by 煎茶堂東京編集部

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陽の光が空気をじんわり暖めて花粉症の辛さが増す3月中旬。僕は大山さんの営む「お茶呑み処 茶楽」まで車で向かっていました。

移動の時間も惜しいので前日に買っておいたパンを車内で食べ、待ち合わせ場所に到着すると大山さんは「谷本くんお昼食べた?」とごく自然に聞いてくれる。「家になんかあるから、食べてなければ出せるから」。この心遣いが大山さんの面倒見の良さ、兄貴肌な面の象徴であり、東彼杵(ひがしそのぎ)の若手をまとめられるゆえんだろうと思う。

長崎県の大村湾のほとりから切り立った山の急傾斜にある東彼杵の茶園。通常は、海風によって「塩害」が発生してしまうため、海沿いには茶園は作れませんが、大村湾はほとんど波が立たないので、こうした貴重な絶景が見られるのだとか。

全国的にも非常に珍しい海が見える茶園。大村湾が間近に迫る。(撮影:大山さん)

そんな海を望む茶園で作る茶とはどんなものなのか、伺ってきました。


話し手:大山製茶園 大山良貴さん 聞き手:谷本幹人




―――いつから茶作りを始められたのでしょうか?
お茶を作り始めたのは、20歳から。その頃若かったので、外の仕事に興味あって東京に家出した感じなんです。東京に出た時には何をしようとは決めてなくて、とりあえず東京に行こうみたいな感じで出てきて、ずっと音楽が好きだったので毎日のようにレコード屋に足を運んでたら、たまたま募集をしていて入社したんです。渋谷のレコードショップで数年働いて、うちの母がケガをしたのを機に戻って、本格的にお茶をやりだした感じですね。

―――以前、当時のレコードショップの話を聞かせていただきましたね。大山さんは、東彼杵のお茶農家の若手6人衆で一緒になって活動をされていますよね。組んだきっかけや活動内容を教えてもらえますか?
2016年に「ツナグ ソノギティーファーマーズ」というグループを生産者6人で組みました。自分が一番年上で、代替わりした、あるいはいずれ代替わりするっていう、東彼杵の後継者を集めたんです。

田舎に来れば分かるように、なかなか過疎化も進んで人口が減少している。税収は上がらないから町は力がない。県も力がないっていうような中で、東彼杵の特産といったらお茶なんですよ。そのお茶をもっと元気にして、自分たちが代替わりして、次の世代にも残せるような状況にしていきたいっていう思いをみんなが持っていた。表に出さなくても、内面的にはみんなが思っていたんですよね。

―――お茶を次の世代に残したいと。
はい。結成して1年後に、長崎で全国茶品評会が開かれるという予定になっていたんです。全国大会ってなったらやっぱり1番を獲りたいねっていう想いがあって、町の方もバックアップしてくれていました。結果、尾上君っていう同じグループの生産者の子が全国1位を獲りました。翌年は福田君っていう同じグループの子が受賞して。よかったねっていうことなんですけど…まぁどちらの年も僕が2位だった(笑)。「今年こそは」って言いながら毎年挑んでるんですけど。

―――2018年の全国茶品評会は、僕は入札会場で大山さんのお茶を拝見させていただきました。色・形・ツヤ・香り。感動的なクオリティで思わず唸りました。
やっぱり全国ってなるとレベルが高くなってくるし、周囲の協力があってはじめてできたことですね。いままでは半ばあきらめ気味に品評会に対して動いてたんですよ。でも、若い子らが2年連続で一等賞を取って、他にも産地賞も取れたことで産地が注目を浴びて、それなりの知名度が広がってきました。

この地域で色々やりたいっていう人たちがまた戻ってくるっていう話もあったりして、今まで出ていく一方だったので、その流れが少しずつ変わってきた。産地全体が良くなって生産者が潤ってくれば、街も潤ってくれるのかなぁと思います。

―――グループの他のメンバーの方々もお会いしたら情熱がものすごいし、大山さんもいろんな動きをされてますよね。うちのお店にもオープンしてすぐに来てくださった。
海外の人たちがたくさん来たりしている今の時代に、リーフ茶はなかなか若い人たちに飲まれていないというか、急須がない家庭がたくさんあって。その中でどうやったら売れていくだろうといろいろな試行錯誤をしていました。

そのときに東京茶寮さんにお伺いしたら、シングルオリジンでやられていたので、「あっ、ちょうど同じ流れで面白いね」って思って共感してて。ブレンドしたらひとつの名前しか、結局そのチームの名前でしか残らないからもったいない。各農家が主人公になるような商品を作った方がいい。これおいしいなって感じたらその生産者に繋がれるような仕組みを作ろうって。

―――見本のお茶も送ってくださって、それがきっかけで東彼杵にお邪魔して、すっかりこの地域のファンになりました(笑)。地域の若手が横でつながっているのは、なぜできたんでしょう。
たぶん自分たちの親の世代でしょうね。親の世代はちょうど釜炒り茶から蒸しぐり(蒸し製玉緑茶)(※)に移行する年代を通ってきてるんですね。

※蒸しぐり(蒸し製玉緑茶)

蒸し製玉緑茶(たまりょくちゃ)=ぐり茶は、茶葉の形状が勾玉のようにぐりっと曲がった形をしている。これは、一般的な煎茶の製造工程の中の、葉をまっすぐに仕上げる最後の工程「精揉」がないためだ。精揉がない分、その他の工程で揉み・乾燥が進められ、圧力・熱の加わり方が変わるため、一般的な煎茶とはまた風味や味わいが異なってくる。

釜炒り茶が売れなくなって、静岡では深蒸し煎茶が増えているっていう情報が入ってくる。うちの親父たちは茶時期の忙しいときにも静岡行って勉強しながらやってきて、やっと蒸しぐりの基盤ができ上がってきたのが、だいたい平成10年ぐらいかな。そこからバブルも終わって、不景気になっていく。良いものから売れないような状況になってきて、安い物は結局ペットボトルに回る。

そういう状況を地域が経験しているので、うちの親父も、みんなの親父たちもお互いによく知ってるんですよ。「なんとかちゃん」とか呼び合うぐらいに仲良くて。大場君ていう子がグループの一番下なんですけど、僕と18ぐらい違うんですね。言ったらもう赤ちゃんの頃に僕ら高校生ぐらいで、卒業してお茶やんなきゃなーなんて言ってたぐらいだから、ちっちゃい頃から知ってる。そんな子らがお茶をやるようになって、兄弟じゃないんですけど、地域のつながりの中で育ってきている。

言ったら、寂しいんですよね、その子らが農業しないって言って出て行ったりとかは。自分も出て行ったとき、みんなにそういう思いをさせたんだろうなって思うんですけど。お茶を作ってもらえたら、茶畑なんかも荒れないし、いい状況で進んでいけるかなと思って。で、自分らの子供たちに、次につなげられるような環境にしたいなっていう思いがありますね。

―――代が変わっていっても、地域の息づかいが残るように。釜炒りから玉緑茶に変えたという話は当時を想像して胸が熱くなりますね。製造工程も全く変わりますし。この地域ではもともとは釜炒りだったんですね。
そうですね、もう本当に「釜」から「蒸し」に変わった。一方でただの煎茶にしているところはほぼないんじゃないんですか。煎茶で彼杵茶ってでてたら、ちょっと偽物じゃないかなって疑っていいくらい(笑)。やっぱり「蒸しぐり」ですよね。

―――遡ると彼杵茶の歴史はどういう背景があるんですか?
恐らくの話なんですけど、栄西(えいさい)っていうお坊さんが平安時代に平戸へお茶の種を持ち帰って、東脊振(ひがしせぶり)や嬉野(うれしの)の不動山からこっちの彼杵の辺りにちょこちょこと植えてたんじゃないかなと思うんですよ。

幕末になって、長崎の出島で海外との貿易をしていた大浦慶さんという女性の方がいまして。この辺の一帯のお茶を買って輸出してた。東インド会社かな。東彼杵や山手の霧の深いところのお茶を買い漁って、輸出していたんじゃないかなと。

実際に生きてるわけじゃないから歴史ははっきりしたことは分からないんですけどでも、「長崎街道」という街道があるんですよ。彼杵は宿場町になってて、嬉野方面にずっと道があったので、街道の流れと歴史的背景を考えると、長崎の方からきて、嬉野にまで抜ける途中でお茶があるねっていうことで茶を買って、送ってたんじゃないかなぁと思うんですけどね。

―――この辺は日本にお茶が伝わってきたときの最先端だったんですね。大山製茶はどのようにできたんですか。
うちの親父は若い頃に牛を買おうか、お茶をしようかっていう選択もあったみたいです。中学校を卒業してすぐ生葉の生産農家として就農したんですけど、その時に牛が2頭いて、お茶畑もあったと。どっちかするならお茶の方が向いてるかなって思って、牛を売って粗揉機を入れたそうです。牛1頭で粗揉機1台くらいだったらしいんですよ(笑)。

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このインタビューは、「観て飲む」お茶の定期便 "TOKYO TEA JOURNAL"に掲載されたものです。毎月お茶にまつわるお話と、2種類の茶葉をセットでお届け中。

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