想像力の芸術、落語の未来。立川吉笑さんインタビュー
2021年01月18日
江戸時代の日本、江戸や大阪、京都などの大都市で、大衆のための娯楽として成立していった落語。
何度目かのブームを経て、今も老若男女に愛されています。300年の歴史を持つ落語が、伝統の重みだけでなく変わらぬ大衆性を保ち続けているのはなぜでしょう?
伝統性と大衆性を両立させながら、愛される芸であり続けること。芸を連綿と受け継いできた噺家一人ひとりの力が、今の落語を作り上げています。
落語というフォーマットを継承しつつ、現代的な価値観にアップデータさせた「擬古典」スタイルで知られる若手噺家きっての理論派・立川吉笑さんに、落語の魅力とは何か、そしてこれからの落語について、お話を伺いました。
教えてくれたのは…立川吉笑(たてかわ・きっしょう)さん
落語家。1984年生まれ。京都市出身。2010年に立川談笑に弟子入りし、12年に異例のスピードで二ツ目に昇進。現代的なコントやギャグ漫画の笑いを古典落語的世界で表現する「擬古典」を得意とする。精力的に落語会を開催するほか、NHK Eテレ『デザインあ』、ネット配信『WOWOWぷらすと』など各種メディアへの出演、『中央公論』での「炎上するまくら」、水道橋博士のメルマガ『メルマ旬報』での「立川吉笑の現在落語論」など、執筆にも積極的に取り組む。著書に『現在落語論』がある。
公式サイト:http://tatekawakisshou.com/
落語の「伝統性」と「大衆性」
落語が人気といっても、やはり触れたことのない人にとっては「何やら小難しいもの」だと思います。しかし落語はそもそも庶民の芸能であって、人々の暮らしに寄り添っている芸です。
江戸時代から受け継がれている「古典落語」がある一方で、江戸時代とは生活様式が大きく変わった昭和以降に生まれた「新作落語」があるのも、その表れだと思います。
昭和の初期に作られた「水道のゴム屋」なんていう、当時多かった仕事をネタにした噺がありますが、今で言えばUber Eatsで噺を作るみたいなもの。
とはいえ「古典」と「新作」とは昭和以降の比較的新しい区別なんです。落語はそもそも口伝でのみ継承される、その日その場限りの芸。
録音技術が発達して古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬、三遊亭圓生といった名人の音源が記録として残され、アーカイブされるようになると「これこそが古典だ」という見方が生まれる。
でもね、そういった名人方の噺を聞くとものすごく自由なんですよ。以降の時代の人たちが、“これが型だ!”と思って継承するから、画一的になってしまった部分はあると思いますし、昭和の後半から平成にかけては、その「型」を良しとする風潮があった。
つまり伝統芸能としての面がより強かった時代だと思います。今はもう少し同時代を生きる人に楽しんでもらうために大衆性を大事にするという風向きになってきましたね。でもどっちがいい悪いという話でもなくて、伝統を重んじる人も、大衆性を大事にする人も、いろいろいていいと思うんです。
というのも落語って「どんな人間も受け入れてくれる」世界なんですよ。立川談志師匠が、“落語とは人間の業の肯定である”という言葉を残していますが、実際にお金をちょろまかして酒を飲む人とか、盗人とか、どうしようもない人がたくさん出てきます。
そういう人も共存して生きている社会を描くのが落語の役割なのだから、落語家にだって多様性があっていいはず。古典の型を演じる才能に溢れた人もいれば、新作で力を発揮する人もいる。落語はそんなにうまくないけど愛嬌があって好かれる人もいる。
そういういろいろな個性を飲み込む世界だからこそ、伝統性と大衆性を両立させることに成功しているのではないかと思います。
制約で「落語的世界」を表現する
自分が考える落語の魅力のひとつは、想像力にゆだねられる芸であるということです。小道具は扇子と手ぬぐいだけ。語りと上半身の身振り手振り、表情で噺を表現するという「省略の美学」だと思っています。
人の想像力をかきたてる芸ゆえに「あたま山(※)」なんていうシュールで、現実にはとうていありっこない世界が成り立つわけです。そんな風に「制約があるからこそ自由に表現できる」落語ならではの世界が、自分にとっては現代アートみたいな面白さに満ちていると思います。
※「あたま山」
花見に金を使うのがばからしいと、道に落ちていたサクランボを食べたケチ兵衛。頭から桜の木が生えてきて、そこに人が集まりどんちゃん騒ぎを始めてしまう。あまりのうるささに桜の木を引っこ抜くと、頭に池ができてしまい……。シュールな世界観が魅力の、ナンセンス古典落語の傑作。
自分の落語の一番の特徴は「擬古典」というスタイルですが、これも落語的世界を新作でも表現したいという考えでたどり着いたもの。例えば現在のお客さんにウケるようにと新作落語「ファミレス」を作ったとします。
そのとき着物姿で正座しながらファミレスの話をすることに違和感を感じました。“コントでやればいいじゃん”って。だから大枠は「江戸時代を舞台に、熊さんや八っつぁんといったおなじみのキャラが登場する噺」に設定しつつ、中で描くやりとりはとても現代的なものにしています。例えば、江戸時代にドリンクバーがあったと仮定して、熊さんが色々混ぜて怒られるみたいな話とか。
吉笑さんの擬古典のネタをイメージしたイラスト。左から「ぞおん」「一人相撲」「手動販売機」
もうひとつ、現代的なお笑いというのはどうしても「刺激が強くなければウケない」という面がありますよね。でも落語はもう少し緩いというか、いい塩梅というか。
同じ噺を何回聞いてもいいし、刺激的すぎないからこそ長く付き合える。斬新なラーメンもいいけど、近所の何でもない普通のラーメン屋もあってほしいみたいな。
だから落語は現代のエンタテインメントとしてはとても稀有な存在です。そういった意味では、自分はまだまだ刺激的なことをやっている側なので、もっと古典もしっかりやれるようになっていきたいと思います。
落語の“持続可能性”とは
実は今、環境問題にものすごく興味があって。というのは、資本主義の台頭によって人口が増加して、CO₂の排出量が増えて……といった問題が山積みになりました。
いつかは社会が崩壊することが目に見えているのに「成長」にしか目を向けなかったばかりに取り返しのつかないところまで来てしまっているのが現代です。
これはいろいろなことに関わってくる話で、落語界も他人事ではないんです。落語は徒弟制度がしっかりと残っている世界で、若手でもバイトをせずに生活していけるというある種のおおらかさがあります。
しかし落語ファンに対して落語家の数はどんどん増えているので、需要と供給のバランスが崩れつつある。こういったアンバランスによって、より資本主義的な構造改革が起きたとしたら?
多様性を受け入れる今の落語の世界ではなく、才能勝負で一部の人気落語家しか生き残っていけない世界になるかもしれません。
落語というのは、庶民の娯楽であると同時に、社会のカウンターという面も担ってきました。権力が強かった江戸時代だからこそえらい人を馬鹿にするような噺もたくさん生まれました。
もしかしたら、今、落語が批判するべきはそういう資本主義的なものかもしれません。
「いや、お金をもらうのはダサいんで」とか、資本主義の反対側に行けたらカッコいい。生活もあるし、自分にはなかなかできないなあとも思うのですが、「談志師匠はそういうことを本気でやっちゃう人だったんだろうな」と改めてそのすごさを感じますね。
自分が生きている時代はまだ落語家としてやっていけるとは思います。でも何世代も先、200年後の落語のことを考えるとしたら、自分たちが何かを変えていかなければならないのではとも感じます。
初めて落語を聞きに行くなら?
最初にも言った通り、落語は庶民の芸能ですから、勉強とか、予習とかそういう考えなしにふらっと見てほしいと思います。それでも楽しみ方を教えてほしいと言われたら、まずは立川志の輔を聞けと(笑)。
自分は志の輔師匠の落語を聞いて面白さを知ったからという個人的なこともありますが、新作・古典、どちらも高いレベルで安定していますから外れがない。チケットが取りづらいとかはありますけど、やはりここは生で見てほしいですね。
また、300〜500人ぐらいの規模の劇場の独演会に行ってみてください。それで噺家3人ぐらいは聞いてみてほしい。300人規模の独演会ができるというのは、十分評価された質の高い芸であるということです。
それに3人分行ったら、きっと自分の好みに近い人が見つかると思います。