お茶とお菓子とおしゃべりと。昔から変わらない「お茶おんな」の集いのこと
2020年01月22日
こんにちは。東京茶寮・店長の井原です。
2020年が始まりましたね。年末年始、地元に帰省された方も多いのではないでしょうか。今回は、わたしが地元に帰省した時に開かれる「お茶の時間」についてお話しします。
日本茶を飲み、お菓子をつまみながら、延々と続くおしゃべり。これ、本で読んだ「お茶おんな」?という気づき。
ひとりでしみじみ向き合うお茶もいいけれど、みんなでわいわい飲むお茶の楽しみを感じていただけたら嬉しいです。
大切な一冊から見つけた「お茶おんな」という言葉
岡倉天心の著作『茶の本』の内容を抜粋した、『本のお茶』という本があります。
最初に手に取ったのは大学生の頃で、以来5回以上の引っ越しをしても本棚に残る、いわば精鋭のような一冊です。
わたしは読書を「熟成」するように楽しむのが好きなんです。18歳、20歳、22歳…と、異なるタイミングで同じ本に触れた時、その読後感で自分の感覚に変化があるかどうか。そんな風に。
『本のお茶』に出会ってから5年たった頃、本の中の「お茶おんな」という言葉が初めてわたしの琴線に触れました。何度も繰り返し読んだ本なのに、新しい鉱脈を掘り当てたような気持ちです。
“お茶を片手にいつまでもおしゃべりに花を咲かす「お茶おんな」”
なぜ、この時だったのかー。わからないけれど、「お茶おんな」の言葉を見つけた瞬間、驚きました。 実家に帰省したときに開かれる「お茶の時間」を過ごす、わたしたちそのものに感じたからです。
美味しく淹れられなかったお茶も話のきっかけに
「お茶の時間」のメンバーは、わたし、母、叔母、叔母の子どもであるいとこの4人。年に4〜5回、わたしが北海道に帰省したタイミングに開かれます。わたし以外北海道に住んでいて、ご近所さんです。みんなで井原家に集まって夕食を食べた後、誰からともなく「お茶の時間」の準備を始めます。
床暖房のついた居間のテーブルの上に並べるのは、たくさんの北海道のお菓子。ラインナップには自信があって、毎回少なくても10種類は用意されます。この日のために、母や叔母が買ってきてくれるんです。
「柳月」「六花亭」といったお菓子屋さんで買うお気に入りや季節の品、道の駅で見つけたなもなき甘味…例えば、とうもろこし、きな粉、りんごのお菓子。食べきれるか食べきれないかという絶妙な量もポイントです。
お茶を淹れるのは、お茶好き親子のわたしと母。煎茶だけでなく、ほうじ茶、烏龍茶、ときにには紅茶と、お菓子に負けないくらい種類があって、テーブルの上にはいつも2種類くらいはお茶が入っています。「どのお茶淹れる?」と悩む時間も楽しいものです。
「お菓子で口の中が甘いから、渋い系のお茶が欲しいな」
「うわっ、茶葉が多すぎた。これは苦すぎた!」
「いやいや、お菓子と合わせたらちょうどいいよ?」
お茶を淹れるのにちょうどいいお湯の温度や抽出時間を知っているけれど、この時ばかりは深く考えず、4人で楽しむためのお茶を淹れています。すごく美味しいときも、イマイチだったときも、アハハと笑ってお菓子に手を伸ばして、お茶を一口。そんな風にして、夜は深くなっていきます。
わたしが高校生の時からすでにあった「お茶の時間」、いつも何を話しているんだろう…と思い出してもとりとめもないことばかりです。テレビもラジオもついていない空間で、ポツリポツリと生まれる会話たち。
この時期なら外の雪の様子や、いとこが通う学校のこと、最近観たテレビドラマのこと…。気がつくと誰かが本を読みだしたり、音楽を聴きだしたり、お風呂に入ったり。でも、お茶とお菓子がある限り、「お茶の時間」は続くのです。
お茶がなくなったらまた淹れたらいいので、「じゃあ、そろそろ」と言い出すタイミングに決まりはなくて、いつも何となく終わっていくのが、寂しくなくていいんです。
わたしたちは「お茶おんな」なのかもしれない
“お茶があるだけで、おんなたちは延々と話をしている” 岡倉天心の時代から、もしくはそれ以前からも変わらない「お茶おんな」の生態。
『本のお茶』には、“心やさしく口うるさいお茶おんなたち”とありました。かしましさとは異なる、尽きないおしゃべりのなかに感じるぬくもりのようなもの。わたしの知っている「お茶おんな」は家族だけれど、お茶があれば、そんなの関係ないって思うんです。
お茶がもたらす少しの高揚感や香りの癒しは、ただでさえ尽きることのないおしゃべりをより楽しくしてくれます。一人でしみじみ向き合うお茶の美味しさとは比べようはありませんが、みんなで飲むお茶もいいものです。
私たちって「お茶おんな」だよね。
そう「お茶おんな」に伝えたとことはないけれど、まさしくそうだとお茶を飲みながらほくそえむのです。